法然上人とは


法然上人は1133年、美作(現在の岡山県)で誕生。
幼少期に武士であった父が夜襲にあい、
その傷がもとで死亡。以後、母方の叔父のもとで
仏門に入り、京都比叡山に登り学問に勤しみ、
知恵第一の法然房と呼ばれるまでになる。

その後、若くして隠棲し、庶民でも女性でも
極楽往生できる道はないかと模索する。
中国浄土教の善導大師の教えにより上人は開眼し、
比叡山をおり、その教えを広く伝える。

その教えは庶民に支持されたが、
また多くの反発もうけ、数々の法難を受ける。
しかし、教えは1212年に法然上人が
亡くなられた後も広まっていき、浄土宗や
浄土真宗、時宗という諸宗派になって
受け継がれている。

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「法然上人像」

法然上人の別名
法然上人は法然房源空(ほうねんぼうげんくう)
という名前で知られているが、
このほかにも多くの別名、幼名などがある。
これは法然上人の生きた時代に幼名
(元服後の名前)、通称、僧名などがあるため。

さらに天皇より徳の高い僧に
贈られた大師名などもあるため。

幼名
法然上人の幼少時の名前、
幼名は勢至丸(せいしまる)。
これは勢至観音菩薩にちなんで
名づけられたといわれている。

このほかに父が夜襲にあった際に攻め手の
大将に見事に矢を命中させたことから
小矢児という通称もあったといわれている。

実名・諱・房号

比叡山にて法然房源空(ほうねんぼうげんくう)
と名づけられた。(時期については諸説あり)
この他に円明房善弘という名前もある。
法然房が房名(ぼうめい)に、
源空が実名(じつみょう)
・諱(いみな)にあたる。

元服の際につけられるのが実名で、
法然上人の場合は出家が元服にあたるため、
源空が実名になる。
房号は元々は房(ぼう、部屋のこと)の
名前をさし、どこの所属であるかを
あらわしていたが、後になると個人名を
あらわすようになり通称として使われた。

古来日本では他人がある人を呼ぶときに
実名をはばかる慣行があったため、
本人でも実名を使うことは稀で、
神仏にあてた祈願文や公式の辞令など
だけに用いていた。

地名による通称・尊称

比叡山を下りて布教を始めてから
庵を構えた地の名前をとって吉水上人、
黒谷上人とも呼ばれていた。
当時の貴族なども屋敷のある場所の
地名がそのまま通称になっていた。

法然上人の大師号

法然上人の生前の徳を讚えて、
滅後480年余に朝廷より賜った大師号は、
500年遠忌の行なわれた宝永8年以降は
50年ごとに加謚される習わしとなった。
現在までに天皇より賜った大師号は下記参照。


大師号 天皇
円光(えんこう) 東山 元禄10 1697
東漸(とうぜん) 中御前 宝永8 1711
慧成(えじょう) 桃園 宝暦11 1761
弘覚(こうがく) 光格 文化8 1811
慈教(じきょう) 孝明 万延2 1861
明照(めいしょう) 明治 明治44 1911
和順(わじゅん) 昭和 昭和36 1961
法爾(ほうに) 今上
平成23
2011


法然年表
西暦 年齢 関係事項
1133 4月7日美作国久米南条稲岡に生まれる。
父は漆間時国(うるまのときくに)、母は秦氏(はたうじ)。
1141 春、父時国が明石定明の夜襲により傷死。
菩提寺の観覚(母の叔父)のもとに行く。
1145 13 2月比叡山に登り源光に師事する。(一説に1147年とも)
1147 15 11月比叡山戒壇院で受戒。
1150 18 黒谷に隠遁、叡空に師事。法然房源空と名乗る。
1156 24 嵯峨清涼寺に参篭、ついで南都の学匠を訪ねる。


(七月、保元の乱)
1157 25 信空が叡空の弟子となり、法然と法兄弟となる。
1171 39 感西、法然の弟子となる。
1175 43 比叡山を下り、はじめ西山広谷に、後に東山吉水に移る。


春、浄土宗を開宗。
1181 49 6月、東大寺大勧進職を固辞し俊乗房重源を推挙。
1183 51 7月28日、木曽義仲の軍勢京都に乱入。この日、聖教を見ず。
1186 54 秋、大原で浄土の法門を講説。(一説に1189年とも)
1189 57 8月、九条兼実に招かれ、往生業を説く。兼実に授戒。
1190 58 2月、重源の求めに応じて東大寺に「浄土三部経」を講説。


7月、九条兼実に授戒。証空、法然の弟子となる。
1191 59 3月、重源の十問に答える。


7月、8月、10月、九条兼実に授戒。


9月、宜秋門院任子に授戒。
1192 60 (源頼朝、征夷大将軍に任ぜられる)
1197 65 3月、九条兼実に授戒。


5月、弁長、法然の弟子となる。
1198 66 1月1日、この日より別時念仏を行い三昧発得。


春、「選択本願念仏集」を撰述。
1199 67 4月、弁長、入洛し、法然より「選択集」を伝受。
1200 68 5月、鎌倉幕府念仏を禁止。
1201 69 春、親鸞、法然の弟子となる。


10月、宜秋門院任子、法然を戒師として出家。
藤原隆信、法然について出家。
1202 70 1月、九条兼実、法然を戒師として出家。
1204 72 2月、伊豆山源延のために「浄土宗要文」を撰述。


10月、山門衆徒蜂起し天台座主真性に
専修念仏の禁止を訴える。


11月、「七箇条制誡」をつくり門弟をいさめ、
これを座主におくる。
1205 73 8月、宇都宮頼綱、法然のもとで出家。


10月、興福寺衆徒、念仏禁断の奏状を捧ぐ。


12月、宣旨により科を免れる。
1206 74 2月、院宣により行空、遵西の2人逮捕。興福寺の五師三綱、
念仏宗宣下につき摂政良経に強訴する。
1207 75 2月、住蓮・安楽、六条河原で死刑。


2月27日、院宣により土佐に配流。


3月16日、京都を出発。室の泊を経て、
3月26日に讃岐国塩飽の地頭の館に到着。


4月、九条兼実死去。


12月、勅免により摂津国勝尾寺にはいる。
1211 79 11月、入洛の宣旨賜り、東山大谷に住む。
1212 80 1月23日、源智に「一枚起請文」を授ける。


1月25日、入寂。大谷の墓所に葬られる。


春、門弟ら法然の中陰の法要を行う。


11月、明恵、「摧邪輪」を著述し「選択集」を批判。
1216 死後4年 良忠、浄土門に入る。
1219 死後7年 2月、専修念仏停止の宣旨下る。
1224 死後12年 延暦寺三綱、念仏門六カ条の過失をあげて念仏停止を強訴。
1227 死後15年 6月、延暦寺衆徒、大谷の法然の墳墓を破却する。
「嘉禄の法難」



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